11月21日 王であるキリスト ヨハネ18章33b~37節  王だとはあなたが言っていることです

今日は王であるキリストの主日です。神の国の完成のときにキリストが王として来られることを記念します。典礼暦は世界の始まりから終わりまでを一年間で記念するので、今日は年間最後の主日となります。いわば教会の大晦日であり、来週から新しい典礼暦年が始まります。
今日の福音では、イエスの裁判の箇所が朗読されます。年間主日の最後にそぐわない内容のように思われますが、ピラトの「お前はユダヤ人の王か」という質問に対してイエスが答えられるという、「王」がキーワードとなっている箇所だから選ばれているのです。
当時のユダヤ地方はローマの直轄地であったので、「ユダヤ人の王」と名乗ることはローマ帝国への反逆を意味します。ですから、ピラトは「ユダヤ人の王」という名称にこだわったのです。しかし、イエスは自分が王であるとは答えられませんでした。それでピラトはイエスを釈放しようとしました。結局、ユダヤ人たち(主に支配階級の人々)の訴えに折れて十字架刑を宣告することになります。

ところでみなさんは「王さま」というとどんなイメージがあるでしょうか。王冠をかぶってマントを着た太った人?あるいはトランプのキングのイメージでしょうか。いずれにしても「偉い人」または「偉そうな人」のイメージです。そして王国を治める人、国民に命令する人が王であると言ってもいいでしょう。
しかし、新しい王が「今日からわたしが王だ。みんな従え」と言って服従を強制したとしたら民はよろこんで従うでしょうか。民が「わたしたちはあなたが王になってくださるのを望んでいます」と言って王になってもらうのがほんとうの王なのではないでしょうか。   
イスラエルにおいて、神の民の一致のために自分を犠牲にして働くのが王の本来の役割でした。それで王に任命される人は神に仕える者のしるしとして聖別の油を注がれました。   
イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と言われました。そして、その言葉通り、自らの命を犠牲にしてわたしたちに永遠の命を与えてくださったのです。その意味において、イエスは真の王の役割を担われたということができるでしょう。そのようなイエスが、わたしたちの王となってくださるならば、これに勝る喜びはありません。ですから、わたしたちのほうから「王になってください」と願うのです。

ピラトの質問に対し、イエスは「わたしが王だとはあなたが言っていることです」と答えられました。すべての人がイエスを王と呼ぶこと、それはすべての人がイエスの神の国の福音を喜びとして受け入れることです。そのときに神の国は完成します。そしてイエスが神の国の王として来られます。わたしたちの福音宣教は、イエスを王として迎えるための準備であるといえるでしょう。                   (柳本神父)