2月27日 年間第8主日 ルカ6章39~45節 師イエスのようになれる修業とは

今日の福音も先週の続きです。先週の朗読箇所の後半に「人を裁くな」というテーマが語られていました。先週はこのことについて触れなかったので、今週はそのテーマを中心に述べたいと思います。

今日の福音では、おが屑と丸太のたとえが出てきます。「人の欠点はよく目につくが自分の欠点は気がつかない」ということはよく言われてきました。「人のふり見てわがふり直せ」とか、「人の一寸、我が一尺」などはそういう意味ですね。あるお寺の掲示板に「お前が悪い、と指す指の三本は、自分のほうを向いている」という言葉がありました。なるほど、うまいことをいうなあ、と感心した次第です。
それらは自分のことを棚に上げて人を批判してはいけないという教訓でもありますが、そのようなことわざや人生訓では人と人のかかわりのあり方を教えています。それに対し、イエスが教えているのは神と人のかかわりのあり方です。それは人とのかかわりを軽視するものではありません。神とのかかわりを通して人とのかかわりを大切にするあり方です。では、神とのかかわりにおいて、なぜ人を裁いてはいけないのでしょうか。

先週の福音には「人を罪人と決めるな」とありました。「裁く」のポイントは「決めつける」ということにあります。罪を犯している人をいさめるのは必要なことですが、だからといってその人を罪人、悪人と決めつけていいわけではありません。イエスが、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」と言われたのは、父なる神が分け隔てなく愛される方であることを示しています。父がそうであるのに、わたしたちが勝手に人を善人、悪人と決めるのはふさわしくないことです。したがって、「自分は神にふさわしくない人間だ」と決めつけることも神の望みではありません。
「人を裁く」ことが神の思いに反することであるのはアダムとエバの話に表されています。創造主が二人に食べてはいけないと言われたのは「善悪の知識の木」でした。「善悪の知識」は人を善と悪に分けることを意味しています。蛇が「神のように善悪を知るものとなる」と言ったのは、人の上に立って裁く者となることを表しています。これが原罪とされたのは、「人を裁く」誘惑はだれでも持っているからでしょう。

イエスは「弟子は十分に修業を積めば、その師のようになれる」と言われました。師はもちろんイエスのことを表しています。「修行を積む」というと断食をするとか、山の中にこもるとか、大変な苦行をするようなイメージがありますが、第一の修行はイエスに倣い、イエスを目標とすることです。そして、イエスは父と一つである方です。先週と今週のみことばは、わたしたちが、父の分け隔てのない愛を実践することによって、師イエスに倣うことができるということを教えています。            (柳本神父)