9月25日 年間第26主日 ルカ16章19~31節 イエスのみことばによってこの世を生きる

先週の福音のあと短い教訓が語られ、今日の「金持ちとラザロ」のたとえへと続きます。
今日の箇所も9章から続くエルサレムへの旅の途上での教えとされています。内容的には先週の福音の結びである「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」という教えとつながっているということができます。また、今日の前の箇所で「金に執着するファリサイ派の人々」が登場するので、イエスはそのような人々に向けてこのたとえを語られたのかもしれません。

イエスは金持ちとラザロの死後の世界での様子を語られます。この様子は当時考えられていた死後の世界のイメージが反映されていると考えられています。アブラハムが出てくるのも当時のユダヤ人に向けて語られているからでしょう。
世界中さまざまな文化の中で死後の世界がイメージ化されています。でも誰も行って見てきたわけではないので想像の産物でしょう(覚源上人など行って帰ってきたという伝説は多くありますが)。平野区のお寺に地獄堂という小堂があって、ドラを鳴らすと閻魔様の鏡に地獄の様子が映るというハイテクな仕掛けがあります。おどろおどろしくて暗い気持ちになること請け合いです。子どもが見たら泣き出しそう。「現世の善行を説くため」だそうですがあんまりおどかすのもなんだかねえ…、と思います。
 イエスもあの世のありさまを説明し、地獄を恐れるようにこのたとえを語られたのでしょうか。贅沢に暮らしていた金持ちは死後苦しみを受け、後悔しています。貧しく苦しい生活をしていたラザロは死後のもとに行き、幸せに過ごしています。それを教訓として単純に考えると、死後に地獄の苦しみを受けないように、貧しい人々のことに施しを行い、贅沢を控えなさい、と言われているように思いますが果たしてそうでしょうか。
これまでの福音の中で、今日の福音を理解する助けになるのは年間第22主日(8月28日)の「上席を選ぶ人の話」でしょう。この世で上に行こう行こうとする人は神から離れてしまう、そして神の国の宴会に招かれるのは貧しい人、体の不自由な人などであるという教えです。
今日の福音でもラザロはアブラハムとともに宴会の席に招かれています。けれども、神の国はこの世から始まるものです。今日のたとえはこの世のありさまを映し出しているものだといってもよいのではないでしょうか。金持ちとラザロの間の大きな淵は社会の格差の現状を表しています。そしてアブラハムとラザロが一緒にいるのは、神が貧しい人々のところにおられるという意味です。

わたしたちは死後の裁きへの恐れによって、正しく生きるのではありません。イエスのみことばによって生きるのです。「死者の中から生き返る者」であるイエスのみことばに耳を傾けることが必要なのです。                   (柳本神父)