9月20日・年間第25主日 マタイ20章1~16節  わたしたちへのごほうびは

今日の箇所は「ぶどう園の労働者のたとえ話」です。先週のたとえ話はわかりやすかったですが、今週のたとえ話は常識的に考えて理解しがたい内容です。朝から頑張った人が夕方から少ししか働かなかった人と同じ賃金だなんて、そりゃあ文句も言いたくなりますね。主人は「あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか」と言いますが、あとから働く人にも同じように払うことは知らなかったわけですしね。
たしかにこの世においては働いた分だけ報酬をもらうのが公平です。しかし、イエスはこのたとえ話から、神とわたしたちの関係は、この世の常識を超えたところにあることを教えられるのです。

わたしたちはこの世の社会に生きていますから、神との関係や教会の信仰もついつい社会の常識で考えてしまいます。たとえば、司祭から司教、大司教から枢機卿、さらに教皇になるのを「出世」と考えてしまうことがあります。上にいくほど「偉い」と思ってしまいます。実際は上にいくほど「えらい(しんどい)」わけですが。
今日のたとえ話に関連して言えば、子どもたちに「いいことをいっぱいしたら神さまがいっぱいごほうびをくださるよ」と言ってしまうことがあります。間違いではないのですが、そう言われると「ごほうび」をこの世のことで考えてしまうわけですね。お金持ちになれるとか、みんなにほめてもらえるとか。あの世のことで考えるにしても、天国で人より幸せを多くもらえるとか、ついついこの世の価値観で考えてしまいがちです。
今日の福音もそうです。この世の常識で考えると理解に苦しむわけです。しかし、イエスはこのたとえ話を通して、神の国の価値観を教えられたのでした。

夕方から働いた人は果たしてラッキーだったのでしょうか。「だれも雇ってくれない」ということは、身体が弱い、高齢である、などの理由でなかなか雇ってもらえなかったわけです。悲しい気持ちでずーっと待っていたわけです。働きたくても働けない、社会の中で後回しにされる人たちでした。
この話のポイントは最後の主人の言葉にあります。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」もし、朝から働いた人が、主人と同じような思いを持っていたとしたら、主人が払う前に「この人にも1デナリオン支払ってあげてください。わたしがこの人の分まで働きましたから」と言ったのではないでしょうか。

実は、イエス自身がそのようにされました。罪人であるわたしたち人間が救いの恵みをもらえるように、代わりにいのちを捧げてくださったのです。
わたしたちへの賃金、ごほうびはなんでしょうか。それは、元気な人も、弱っている人も、罪人も、善人も、悪人も、みんなが同じ救いの恵みをいただくことです。(柳本神父)