5月2日 復活節第五主日 ヨハネ15章1~8節  わたしたちはぶどうの木の一部である

今日の福音の箇所はヨハネの福音書では最後の晩さんの際に弟子たちに語られる説教の一部です。そこでは、いろいろな表現でイエスが父とつながっており、同じようにわたしたちもイエスとつながっている(あるいはつながっているように、と求められる)ことを伝えられます。今日の箇所では「ぶどうの木」のたとえを通して語られます。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」というと、イエスが幹でわたしたちがその先の枝というふうに分けて考えますが、「木」は根、幹、枝、葉、花、実などのすべてを表しています。ということは、わたしたちもイエスという「木」の一部であるということができるでしょう。つまり、この言葉は「わたしにつながっていなさい」と勧めておられると同時に「わたしの一部である」とおっしゃっていることになります。そこにはどういう意味があるのでしょうか。
 ここで、「神さまの子ども」というイメージが参考になるかもしれません。わたしたちはみんな「神さまの子ども」としていのちをいただいています。大人であれ、子どもであれ、信者であれ、非信者であれ、みんな「神さまの子ども」です。わたしたちが洗礼を受けるのは「神さまの子どもになる」ことだと言われますが、ほんとうは「神さまの子どもとして生きる」ということだと思います。同じように、「イエスにつながっている」ということは、「イエスにつながっている」ことを自覚し、それを喜びとして生きる、さらにイエスからいただいた愛を分かち合うということではないでしょうか。
 先週の福音でも「囲いに入っていない羊も導かなければならない」と言われています。イエスにとって、すべての人は羊でありぶどうの枝であって、大切なことはイエスにつながっていることを喜びとすることです。

 イエスは「望むものを何でも願いなさい、そうすればかなえられる」と言われます。わたしもそうですが、みなさんが今、心から願うのは新型コロナの終息でしょう。けれども、一生懸命お祈りしてもなかなか感染拡大は収まりません。イエスはわたしたちの願いを聞いてくださらないのでしょうか。
 しかし、そこには「感染が終息したら信仰生活が元のようにできる」という思いもあるかもしれません。たしかに感染拡大によってミサを始め、さまざまな教会活動ができなくなりました。けれども、それで信仰生活が止まっているわけではありません。イエスの愛を実践する機会が失われたわけではありません。ぶどうの実は自分のために実らせるのではなく、鳥や動物、人間を喜ばせ、さらにその種からまたぶどうの木が増えていきます。コロナ下の今も、わたしたちがイエスのぶどうの木の一部であることを自覚し、イエスとつながっていることを喜びとし、イエスの愛を分かち合うことによって、イエスの愛が広まっていくのです。                          (柳本神父)